bel canto〜美しい歌〜


 つい忘れがちではあるが、まだ学生であるスコールには、休日というものがある。ディシディア学園の特殊学科生とてそれは例外ではなく、休日はこうして何をすることもなく家で過ごすことができるのだ。
 とはいうもののスコールの休日の楽しみ方と言えば、読書に没頭するか、シルバーアクセサリ関連の店を冷やかすくらいのものだ。それ以外に休日にすることと言えば、個人メニューでの鍛錬を行うくらいのものだ。
 読書も勉学の一環として行っていたものだった。しかしいつの間にか彼にとっては趣味といえる行為へと変わっていた。
 早く大人になりたいと願ってやまないスコールは、本を読むことで得られる知識によって自身を高めることを喜ばしく思っていた。
 今日も今日とて、リビングの一番日当たりのよいソファーに陣取ったスコールは大分長い時間読書に没頭していた。一息つこうと本を閉じ、テーブルに置かれたカップに視線を移す。
 スコール用のカップには、コーヒーメーカーで挽かれたばかりのコーヒーがよい香りを漂わせている。邪魔をされることもなく静かで落ち着いた時間を、好きなことで費やせるというのは幸せなことだ。
(今日も静かな一日だ)
 マグカップに口を付けながら、スコールは満足そうに目を閉じる。栞を挟んだ読みかけの本を傍らに放り出すと、彼はソファに身を預ける。
 人の声のしない部屋は、こと静かだ。しかしそれは無音の静けさではない。耳を澄ませてみれば、車の走行音も、近所の子供たちの声までも耳に届く。
 これまでは、意識がそれらに拒否を示していたせいもあるのだろう。その音ですら騒音と感じて、イラツクこともしばしばだった。しかし、いつの間にか周囲に音がある事が当たり前となり、スコールは雑音のある静寂を楽しめるようになっていた。
 それというのも、ある一人の人物が彼の生活に関わるようになったせいだろう。その人物の姿を思い浮かべ、スコールは小さく口元を緩め、微かに笑みの形を作る。
 今も耳を澄ませてみれば、庭から少し調子の外れた楽しそうな歌声が響いてくる。
 それは、住み込み家政夫としてスコールの家にやってきた、バッツのものだった。天気がいいから洗濯物が良く乾く、とバッツは意気揚々と庭へ繰り出していった。陽気に誘われすぎたのか、バッツはそれらを干しながら鼻歌を歌い始めたのだ。格別に巧いわけではないけれど、中高音の柔らかなその声は聞いているものに心地よい音を届けてくれる。
 しばらくその歌声に耳を澄ましていたスコールは、それが少し前に自分が教えた曲だったことに気がついた。歌になど興味のなかった自分が唯一知っていた歌だ。少し気だるい感じの耳馴染みの良い恋の歌。
「バッツのやつ…」
 強請られるままに何度か歌ってやったのだが、そのまま覚えたのだろう。自分とは全く違う調子で、楽しそうに歌われるその歌の合間に、パンパンと小気味のよい音がする。
 バッツが家に来た当初は、そんな些細な音ですら騒々しく気に障ったものだった。その音を心地よいと感じるようになったのは、いつからだっただろうか。
 楽しげなバッツの歌声は、次から次へと歌を変えていき、不可思議なメドレーを作り出していた。ソファーに身を預けて目を閉じていたスコールは、段々と近くなってくる物音に微かに口元を緩めた。
「スコール…あれ?」
  頭上から降ってきたバッツが素っ頓狂な声を上げる。その声に目を開けると、ソファの背もたれ側から身を乗り出したバッツが瞳を輝かせてスコールを見下ろしていた。
「近すぎだろう」
 ほんの数センチのところにある顔を軽く睨みながらスコールがいう。薄いガラス越しに見えるバッツの表情が、いつもと少しだけ違う様に見えるのは何故だろう。
「ぶっ…」
 それまで何かを堪えるようにしていたバッツだったが、とうとう限界が来たらしく盛大に吹きだした。
「何だ。突然。失礼な奴だな」
 むっとした表情でバッツに文句を言うスコールだったが、彼が笑う理由が分からないでもないので、あまり強いそれにはならない。返されたバッツの答えはスコールの想像の範疇から寸分違うこともなかった。
「だって…。その眼鏡…」
 思い切り笑いながらスコールの顔を見下ろしていたバッツは、大きく息をついてようやく笑いを収めた。
「今どき、その黒ぶち眼鏡はないだろ〜」
 スコールの頬を両手で挟んで上を向かせると、バッツはくすくすと笑いながら声を上げる。
「昔から使っている」
「いや。そうじゃあなくて。デザインとかさ」
 まじまじと自分を見つめるその視線に居心地の悪さを感じ、スコールが眉を顰める。
「初めて買ってもらったものだったからな…」
(デザインなんて気にしたことなかったな。そう言えば)
 いつもどおりの変わらないスコールらしい返答に、バッツが「ふぅん」と頷く。わかったのか分かっていないのか。それすら謎だ。
「誰に買ってもらったんだ?」
 バッツが微かに首を傾げて尋ねる。逆さまに見えるその表情はいつもと違う印象を与える。
「孤児院の院長先生だ」
「親父さんじゃないのか」
「ああ。親父が俺を引き取ったのは、一年前だからな」
 スコールは少しだけ複雑そうな表情でバッツの質問に答える。バッツはふぅん。と声を上げると、暫く何かを考えていたが不意にその顔いっぱいのに笑みを浮かべた。
「な。今から買いに行こう。眼鏡」
「は?」
 突然の発言にスコールは素っ頓狂な声を上げる。
「いいじゃんか。せっかくかっこいいのにその眼鏡はもったいないだろ」
 スコールの頭を撫でながらバッツが言う。使えさえすればどうでもいいと叫ぶスコールに、バッツは少しだけ大人びた顔を見せる。
「思い出の品だろ。大事なものだと壊れるんじゃないかって心配になるだろ。お兄さんが買ってやるから、新しいの探しに行こう」
 そう言われてスコールは一瞬言葉を失った。大事なもの、無くしたくないもの。そんな風に思ったためしはないはずだったが、確かに存在を常に気にしていたような気はする。
「ほら。行くぞ!用意しろ。用意」
 バッツはつけていたエプロンを外すと、外出の用意をしに二階へあがっていく。スコールはその後姿を眺め呆れたように溜息をついた。



 子供の頃の思い出が詰まった黒ぶち眼鏡は、新しく手に入れたシルバーの細いフレームの眼鏡に居場所を譲った。大事な物は無くしたくはないが、手放したくもない。それに、何故だか誰彼構わず自慢したい気分だった。
 後日新しい眼鏡をかけて読書をしていたスコールに、バッツが尋ねた。
「ところでさ。スコール、目、悪かったか?」
「いや」
「なのに眼鏡?」
「視力が良すぎて、近くが見にくいんだ」
「…………老眼?」
 バッツの頭がいい音を立てたのは言うまでもない。