ピアノソナタ



 夏も終わり、秋の気配がし始めた頃、学生であるスコールは毎日のルーティンワークのような生活に少しだけ飽きを感じていた。それは別段気にするようなことではなかったのだが、やはり頭の隅にその飽きが顔を覗かせ、それが暫くぶりに喫茶店を訪ねるという行為を思い出させた。
 学校と家の通学路の途中にあるこの喫茶店ワイルドローズは、スコールが変わらぬ日常を少しだけ変えたい時に訪れる場所でもあった。
 静かな店内。かおる紅茶の香り。スコール自身は家ではコーヒーを愛飲しているのだが、紅茶ももちろん飲む。このワイルドローズは店主の意向なのか何かあるのか、種類はかなりの物を置いているが紅茶のみという少しだけ変わった店だった。しかし、軽食や食事の味の良さも相まって、スコールは足しげくとは行かないが、こうして時折顔を覗かせていた。
 手触りの良いテーブルや椅子。落ち着いた色合いで統一された店内。何故かステージがあり、そこには年季物のアプライトピアノが鎮座していた。が、弾く者がいないためかずっとカバーがかけられたままであった。
 しかし静かな時間を過ごせる場所というのは中々少ない。スコールにとって、ただ静かに自分の時間を過ごせるこの場所は、贅沢とも言えた。
 カラン。
 スコールがドアを開けると、ドアベルの古めかしい音が来客を告げる。常ならそれなりに混んでいるこの店も、時間の隙間が出来たのかスコール以外の客がいないという状況だった。
「いらっしゃいませ。お一人様でしょうか」
 声をかけられ、スコールはそちらへと顔を向けた。そこには、見慣れない一人の青年が立っていた。エプロンをしているのでこの店の従業員だと知れたが、これまで見たことのない顔だった。
 短い榛色の髪は癖があるのかあちこちに跳ねている。灰空色の丸く大きな瞳は楽しげにキラキラと輝きいている。愛嬌のある笑顔を浮かべ、その店員はスコールを見ていた。
「ああ」
 自分と同じ年くらいだろうか。そんなことを思いながら、スコールは店員に頷く。
「どうぞこちらへ」
 店員は、変わらない笑顔のままでスコールを店の奥へと案内する。そこはいつも座らされる席よりも奥まった場所だった。しかしステージとピアノがよく見える場所でもあった。
 スコールがそこに腰掛けると、メニューが差し出される。いつもと同じものを頼むつもりでメニューに視線を落としたスコールは、そこに見慣れない紙が挟まっていることに気が付いた。
「これは…」
 そこには、紅茶とは別にコーヒーのメニューが数点追加されていた。
「今度から新しく始めたんだ。良かったら試してよ」
 親しげに声をかけてくる店員に、スコールは多少逡巡しながら頷いた。他に客がいないせいなのか、その店員は引っ込む様子もなくスコールがメニューを選んでいるのを楽しそうに眺めていた。スコールは居心地の悪さを感じつつも、軽食とコーヒーをオーダーする。
 オーダーを取った店員が厨房へと消えると、スコールは小さく溜息をついた。
 あんなにテンションの高い店員がいたのでは、この先ここを訪れる機会も減るかもしれない。好みの店だったのに勿体無い。そんなことを思いながら視線を上げる。
 店の奥まった場所にあるそこからは、店内や店の前の大通りが眺められた。大通りを行き交う人々が忙しなく歩いていく様子や、時折興味深そうに店内を覗く様子を眺めている様にスコールは手元の本を眺めることも忘れて、ぼうっと見入っていた。
 どれほどそうしていたのだろう。馥郁たる香りが鼻をくすぐり、温かな湯気と共に目の前にカップが置かれた。この店特有の少し大きめのカップに注がれたコーヒーは、豆の香りを損なうことなく温かな香りを届けてくる。スコールはその手を差し出した先を見上げるが、それを運んできたのは先ほどとは違う店員だった。それからさほどもしないうちに軽食が運ばれてくる。見慣れたサンドウィッチを一口齧ったスコールは少しだけ驚いたように目を見開いた。
 このチキンを主体としたこのサンドウィッチはソースが少し甘めにされており、柔らかな口当たりだった。それが今日のものは甘みが抑えられ、逆に胡椒を利かせた少しピリッと来る味付けになっていた。
(ああ。作る人が変わったのか)
 漠然とそんなことを考えながらスコールはサンドウィッチを口に運んでいく。
「なあ。あのピアノ、触ってみてもいいか?」
 そんな軽い問いかけの声が、スコールの耳に飛び込んでくる。どうやら声の主は厨房にいる雇い主に問いかけているらしい。それに答える声は聞こえなかったものの、「やった!」というその声を耳にし、結果がどうであったのかを知った。
 と、その視界の先に、榛色の髪が映った。彼は厨房から出てくると、スコールには目もくれずステージに上がる。そっとピアノの蓋を開いる姿はまるで子供のようで、ピアノの弾き方を知っているのかと問いただしたくなる程に無邪気な様子を見せていた。が、鍵盤の保護布を外し、白と黒で構成された88のピースをうっとりと眺める様子はまるで、長年別れていた恋人を見守るような深い瞳だった。
(何なんだ?あいつ)
 不思議そうに視線で追うスコール。しかし彼は全く気が付かないらしく、アプライトの前に腰掛けると大きく息をする。数度深呼吸をした後、青年はその細い両手を鍵盤の上に置いた。
 細い指が鍵盤に埋まり、そしてピアノの音が店内に響いた。
 先刻の様子から、恐らくでたらめな曲か、子供の練習曲が流れてくるのだろうと覚悟していたスコールは、流れてきた音に言葉を失う。
 物静かなメロディ。少し寂寥感を帯びた、けれど透明な音色が音を奏でていく。静かな店内に深いピアノの音がやさしく響き渡る。
 それは、音楽に疎いスコールですら知っている曲だった。
(ピアノソナタ、ナンバー14…だったか…)
 物悲しいその音が、奏でている相手に似合わない気がして、スコールはつい視線を青年へと向ける。どんな顔をして弾いているのと思えば、彼はただ真っ直ぐに鍵盤だけを眺めていた。その大きな丸い瞳には宵闇の星空のようなうっとりとした光を浮かべ、微かに口の端があがり薄い笑みを浮かべていた。男性的というよりはどこか女性的なその端整な顔はあどけなさを残しているようにも、理知的な大人のようにも見えた。
 それまでの軽そうなイメージから一転、その場にいるのは不可思議な印象を湛えた一人の人間だった。
 一楽章を弾き終えると、青年は名残惜しそうに鍵盤から指を離す。静かな空間に、音の余韻が漂っていた。
 青年はその漂う音を探すように視線をめぐらせ、そしてそこで初めて気が付いたようにスコールを見た。青年は感想を求めるようにスコールを見るとにっこりと笑った。
「ピアノソナタ、ナンバー14だな」
 スコールが静かに答える。青年は彼の答えに一瞬きょとんとした表情を浮かべたがそれはすぐに楽しげな笑みへと変わった。
「お前、面白いな。普通はさ、『月光』って言うと思うんだけど」
 ひどく楽しそうに笑う青年に、スコールは面倒くさそうに表情を歪めた。青年は猫のように音もなく近づいてくると、スコールの向かいに腰を下ろす。馴れ馴れしいと思いつつも断る口実も思いつかないために、彼の好きにさせていた。
「おれ、バッツっていうんだ。お前は?」
 気さくな彼の様子にスコールは深い溜息をつく。
「答える義理はない」
「何だよ。つれないなぁ」
 スコールはバッツと名乗った青年を無視するように手元のコーヒーに口をつける。口に含むと苦味のある香りがふっと広がる。けれどそれは苦いだけでなくほのかな酸味を伴って喉を通り過ぎていく。微かに表情を変えたスコールの様子を眺め、バッツはやけに楽しそうに笑顔を浮かべている。
「それ、美味いか?」
 バッツが尋ねてくる。その顔を不思議そうに見返したスコールだったが、質問の意図が読めずに素直に首を縦に振った。バッツは、「そっか」とだけ呟き、うれしそうに頬杖をついた。
 やけに嬉しそうにスコールを見ている青年に、怪訝そうな視線を向けたスコールが声を発しようとしたその時、ドアベルが涼やかな音を立てた。
「いらっしゃいませ」
 バッツは、ドアベルの音を耳にするとすっと席を立つと、ドアへと向かっていく。カウンターの傍を通るときに、どうやら引っ掛けてあったらしいエプロンを手際よく身に着ける様を眺めながら、スコールは何故か多少の苛立ちを覚えた。それが何故なのか分からず、スコールは微かに眉を潜める。立て続けにドアベルがなり、さほど広くもない店内はすぐに人で溢れかえってしまった。
 そんな店内をくるくると楽しそうに動き回るバッツは、何度かスコールへと視線を向けた。しかしオーダーや配膳などで余裕が取れないらしく、こちらへと近づいてくることはなかった。
 いつの間にか立て込む時間になっていたらしい。夕方も大分遅くなったことを腕時計で知ると、スコールは静かに席を立った。今から帰れば、通いの家政婦と顔をあわせることなく過ごせるだろう。
 いつもと同じように店を出たスコールだったが、何故かもやもやした気持ちが消えることはなかった。
「ああ。結局名前を言わなかったな…」
(また次に店を訪れた時にでも教えればいいか)
 漠然と次も会えるだろうという確信を持っていたスコールは、そのまま自宅へと足を向けたのだった。